幸福の消費と生産

幸福と言うと何かたいそうなイメージ(宗教的なものや政治・経済の主義主張だったりとか)を喚起してしまうかと思うのだけれども、僕が話したい幸福って言うのはそんなもんじゃなくて、ただ単純にみんなが思う「あー幸せだなー、楽しいなー」って思う感情の事。

 

年末~正月にかけて、まあそれはとても楽しい1ヶ月を過ごしてきた。気の知れた仲間達と酒を酌み交わす事は数え知れず、クリスマスや年末に非日常を味わったり、今まで見たことの無いようなめくるめく世界を体験させてもらったり。

 

そんな楽しい事ばかりがあったなーと今日考えていたのだけれども、その後脳内を支配したのが「日常に戻りたくない、こんな日々がずーっと続けばいいのに」と思う、モラトリアム的な考え。しかし現実はすぐそこに迫ってきている(1/10が仕事始なもので)。まあそれだけ幸福感で満たされていたってこと。

 

でもはたと気づいた。「あれ、俺ってこの1ヶ月間で感じていた『幸せな感覚』を受ける側ではあったけど、まったくと言っていいほど与える側じゃなかった・・・

そう振り返ってみれば、例えば飲みに行くにしても食べに行くにしても、最初のきっかけは仲間の誘い。自分から誘う事なんてほぼ無い。何だってそう、どこかへ出かけにいくのだって、どこかに集まるときだって・・・。

いつのまにか、なのか、はじめから、なのか分からないのだけれど、自分は幸福を消費する側の人間になっていた。そして幸福を消費しては、それは料理の専門家かのように批評を始め、「ああ、あのレストランでの食事は楽しかった」だの「あの場所に行ったのはとても良かった」だの「でもあそこが云々」などと偉そうに言っている。

 

自分は幸福を生産することが少ない。他人に消費してもらう幸福、自家消費用の幸福であっても。幸福が与えられることを、ひな鳥のように口をあけて待っている。

それは自分の人生に対して、自分自身の力で幸福を与える事ができないという事と同義。そして自分で幸福を生産できないからこそ、与えられる機会の多いこの1ヶ月が過ぎ去り、日常に戻ることが苦痛でたまらないのではないか。自分で自分のために幸福を生産さえできれば、幸福で餓死することにおびえる必要なんて無いのに。

 

まずは自分が人生を楽しもう。人生を楽しむためには、自分が自分に対して幸福を与えられるように行動するんだ。

そしてその楽しんだ幸福のおこぼれを周りの人々と共有する。自分が楽しめるからこそ周りの人たちも巻き込める。

最後にはその幸福を周りの人々に与えるためだけに、自分が何かの行動を起こせれば素敵だね。

 

いつの日か、幸福の自給自足を果たせるようになって、さらには余った幸福たちを周囲のみんなにおすそわけできれば。